深夜、地震で目が覚める。うとうとしつつ、体感は震度2くらいか。翌朝のニュースを見ると東京は震度4だったということで、意外な感じがする。ホテルは11階の部屋なのだが、そんなに揺れた気はしなかったのだ。それにしても、やっぱりこっちは地震が多いね。
早く寝すぎたため5時起床、6時半に朝食。9時過ぎに出発し、最初の目的地は竹橋へ。
■東京国立近代美術館「熊谷守一 生きるよろこび」。
「轢死」:ほぼ真っ黒(暗褐色)に近い作品。よく目を凝らすと、横たわる人が見えてくる。
「蝋燭(ローソク)」:レンブラントなど古典絵画を思わせる画風。
「人物」:人物裸体の背中側を描いた作品。三岸好太郎を思わせる。
「ひまわり」:が台のせいもあるが、筆のタッチがはっきりと見え、ゴッホ的ともいえる。
「チュウリップ」:デフォルメした葉の描き方に、後の熊谷を思わせるところがある。
「夜の裸」:光の表現からスタートしたらしい、モノの輪郭線の「赤」が特徴的。1940年代はこの線があったりなかったりという時代らしい。
「高原ノ道」:1940年のこの作品には、後に続くモノの輪郭と色彩分割の特徴がはっきり出ている。
「御嶽」:山を描いた作品だが、抽象化というか単純化というべきか。私にはそれよりも「キャラクター化」が進んでいるようにも見える。「山クン」「雲クン」とでもいうような描き方に見えるのだ。また、彼の取り組みは、モンドリアンに近いようにも思える。
「ヤキバノカエリ」:長女が死んで、その焼き場からの帰るところを描いた作品。細かいことは記憶から落ちてしまい、強烈な印象のみが残る心理描写をストレートに描いたもののように見える。
「稚魚」:画面に魚が5匹躍る様子は、マティスの「ダンス」にも似ている。
「たまご」:黒いお盆に4つの卵という印象的な作品。
「無」:熊谷の書。ちょっとあざとい感じに見えるなあ。
彼の作品はマティス、ゴーギャン、アンドレ・ドラン等の影響を受けているとの説明書きがあった。作品の構図自体がそっくりのものもあるようだ。年を取ってからは体の調子が良くなく、なかなか外に出かけられなくなったとの事。それゆえに同じような作品をアトリエで作ることが増えたらしい。
連続して作品を見ると、その変遷はある程度見えてきたのだが、前半の伝統洋画からスタートして、最後のいわゆる「モリカズ風」をどう見るべきか。彼の作品が色彩と典型的な形を抽出した、ある種の抽象画といえるような試みであることは言えると思う(モンドリアンにも似た)。
但し、ではそれが素晴らしく成功したものかといわれると必ずしもそうは言えないのではないか。それは作品数が多かったせいもあるだろうが、終盤の展示室に来たときの観覧者の集中力の欠如が証明しているように思えるのだ。抽象化というよりは、ある種のパターン化(武者小路実篤にも似た)に陥ってしまったような…(この辺、ど素人感想なので突っ込まないで…)。
かなり時間が経過したので、常設展はものすごい高速で流し見して、毎日新聞社ビルへ。
早く寝すぎたため5時起床、6時半に朝食。9時過ぎに出発し、最初の目的地は竹橋へ。
■東京国立近代美術館「熊谷守一 生きるよろこび」。
「轢死」:ほぼ真っ黒(暗褐色)に近い作品。よく目を凝らすと、横たわる人が見えてくる。
「蝋燭(ローソク)」:レンブラントなど古典絵画を思わせる画風。
「人物」:人物裸体の背中側を描いた作品。三岸好太郎を思わせる。
「ひまわり」:が台のせいもあるが、筆のタッチがはっきりと見え、ゴッホ的ともいえる。
「チュウリップ」:デフォルメした葉の描き方に、後の熊谷を思わせるところがある。
「夜の裸」:光の表現からスタートしたらしい、モノの輪郭線の「赤」が特徴的。1940年代はこの線があったりなかったりという時代らしい。
「高原ノ道」:1940年のこの作品には、後に続くモノの輪郭と色彩分割の特徴がはっきり出ている。
「御嶽」:山を描いた作品だが、抽象化というか単純化というべきか。私にはそれよりも「キャラクター化」が進んでいるようにも見える。「山クン」「雲クン」とでもいうような描き方に見えるのだ。また、彼の取り組みは、モンドリアンに近いようにも思える。
「ヤキバノカエリ」:長女が死んで、その焼き場からの帰るところを描いた作品。細かいことは記憶から落ちてしまい、強烈な印象のみが残る心理描写をストレートに描いたもののように見える。
「稚魚」:画面に魚が5匹躍る様子は、マティスの「ダンス」にも似ている。
「たまご」:黒いお盆に4つの卵という印象的な作品。
「無」:熊谷の書。ちょっとあざとい感じに見えるなあ。
彼の作品はマティス、ゴーギャン、アンドレ・ドラン等の影響を受けているとの説明書きがあった。作品の構図自体がそっくりのものもあるようだ。年を取ってからは体の調子が良くなく、なかなか外に出かけられなくなったとの事。それゆえに同じような作品をアトリエで作ることが増えたらしい。
連続して作品を見ると、その変遷はある程度見えてきたのだが、前半の伝統洋画からスタートして、最後のいわゆる「モリカズ風」をどう見るべきか。彼の作品が色彩と典型的な形を抽出した、ある種の抽象画といえるような試みであることは言えると思う(モンドリアンにも似た)。
但し、ではそれが素晴らしく成功したものかといわれると必ずしもそうは言えないのではないか。それは作品数が多かったせいもあるだろうが、終盤の展示室に来たときの観覧者の集中力の欠如が証明しているように思えるのだ。抽象化というよりは、ある種のパターン化(武者小路実篤にも似た)に陥ってしまったような…(この辺、ど素人感想なので突っ込まないで…)。
かなり時間が経過したので、常設展はものすごい高速で流し見して、毎日新聞社ビルへ。