小樽の商店街。日曜日とはいえ、3連休の中日なのである。あちらこちらで海外から来たらしい人たちの声は聞こえるものの、このアーケード街は閑散とした感じがする。
まずは小樽美術館・文学館へ。
1階の中村善策記念ホール「中村善策と小樽」から見る。多分、今回の展示は見ているような気がするのだが、「小樽風景」という初期作品が面白かった。植物の形を単純化して描き、何となくセザンヌの味わいがある作品なのだ。ここに中村善策と小林多喜二の交友についての記載があった。貧乏だった中村に、多喜二が心配して妹にパンを届けさせていたのだとか。イメージとしては多喜二のほうが貧乏なので、意外な感じがした。
3階の「幻視者・一原有徳の世界6」(これも多分見ている)を経由し、小樽文学館へ。「暮らしと文学〈あのころの小樽〉展1 夜更かしする文学青年の時代」が開催中なのである。
そもそも文学青年というのが生まれ、一晩中作品を書いたり悩んだりできるようになったのも、電燈が一般に普及してからの事というのが「ごあいさつ」の文章に書かれていた。確かに今でこそ当たり前だが、電燈というのは画期的な発明であるのだろう。
そしてまた、夜汽車というものも生まれ、汽車は読書空間になっていき、そのニーズのために文庫本が生まれたというのも興味深い話だ。私は割と電車でスマホなどを見ている人に対して文句を言わないのだが(歩きスマホなど他人に迷惑をかける場合は別だ)、電車内の読書は割と最近の習慣であり、おそらく昔は「こんな所で本を読むとは!」と、知識人がお怒りだった時代もあるのではないかと想像していたからだ。
文学館内の汽車再現コーナーでも車窓は夜の状態になっている。
次の展示は左が灯油ランプ(を再現した電気のランプ)、右がカーボン電球による照明再現である。
これは「文明キター!」という感じがしたのだと思う。
ここで、コーヒー休憩。比較的最近の本「学校内カースト」を読む。
続いて、小樽美術館「水彩画家 白江正夫遺作展 さいはての風景へ」を見る。
「波止場風景」:船と空と雲を見上げるように描いた作品。色彩が明るく、ラテン系の味わいがある。
「翔」:湿原のトドワラを描いた作品なのだが、緑の炎のようにも、回転するつむじ風のようにも見える、心象風景作品。
「稲穂1丁目」:稲穂湯、床屋、鳥獣店と店が並んだ、昔をほうふつとさせる作品。
「赤い木」:岬を訪れた男の前には、赤い木とデフォルメされた赤い太陽があった。
「緑陽」「赤陽」:彼の作品には小さな太陽が描かれていることが多い。北国だからこそ、光の弱い太陽であっても、それを求めるのだろう。
小樽の雪はやはり札幌よりは多いようだ。
まずは小樽美術館・文学館へ。
1階の中村善策記念ホール「中村善策と小樽」から見る。多分、今回の展示は見ているような気がするのだが、「小樽風景」という初期作品が面白かった。植物の形を単純化して描き、何となくセザンヌの味わいがある作品なのだ。ここに中村善策と小林多喜二の交友についての記載があった。貧乏だった中村に、多喜二が心配して妹にパンを届けさせていたのだとか。イメージとしては多喜二のほうが貧乏なので、意外な感じがした。
3階の「幻視者・一原有徳の世界6」(これも多分見ている)を経由し、小樽文学館へ。「暮らしと文学〈あのころの小樽〉展1 夜更かしする文学青年の時代」が開催中なのである。
そもそも文学青年というのが生まれ、一晩中作品を書いたり悩んだりできるようになったのも、電燈が一般に普及してからの事というのが「ごあいさつ」の文章に書かれていた。確かに今でこそ当たり前だが、電燈というのは画期的な発明であるのだろう。
そしてまた、夜汽車というものも生まれ、汽車は読書空間になっていき、そのニーズのために文庫本が生まれたというのも興味深い話だ。私は割と電車でスマホなどを見ている人に対して文句を言わないのだが(歩きスマホなど他人に迷惑をかける場合は別だ)、電車内の読書は割と最近の習慣であり、おそらく昔は「こんな所で本を読むとは!」と、知識人がお怒りだった時代もあるのではないかと想像していたからだ。
文学館内の汽車再現コーナーでも車窓は夜の状態になっている。
次の展示は左が灯油ランプ(を再現した電気のランプ)、右がカーボン電球による照明再現である。
これは「文明キター!」という感じがしたのだと思う。
ここで、コーヒー休憩。比較的最近の本「学校内カースト」を読む。
続いて、小樽美術館「水彩画家 白江正夫遺作展 さいはての風景へ」を見る。
「波止場風景」:船と空と雲を見上げるように描いた作品。色彩が明るく、ラテン系の味わいがある。
「翔」:湿原のトドワラを描いた作品なのだが、緑の炎のようにも、回転するつむじ風のようにも見える、心象風景作品。
「稲穂1丁目」:稲穂湯、床屋、鳥獣店と店が並んだ、昔をほうふつとさせる作品。
「赤い木」:岬を訪れた男の前には、赤い木とデフォルメされた赤い太陽があった。
「緑陽」「赤陽」:彼の作品には小さな太陽が描かれていることが多い。北国だからこそ、光の弱い太陽であっても、それを求めるのだろう。
小樽の雪はやはり札幌よりは多いようだ。